国富家文書による幕末酒造史

宮下酒造株式会社
社長 宮下附一竜

 幕末に岡山城下町の惣年寄を勤めた豪商塩涌屋国富家の文書約五百点が、岡山市立中央図書館に寄贈されています。この文書は昭和二〇年六月の岡山空襲で被災を免れた数少ない町方史料で、近世城下町の岡山市政を知るには、岡山大学付属図書館の「池田家文庫」と補い合う貴重な資料です。

 国富家は江戸時代後期から海産物問屋として発展、金融業で財をなし、幕末には岡山藩の財政を支える有力商人になりました。1855(安政2)年に国富源次郎が銀札切り下げに起因する取り付け騒ぎを収拾するにあたり、町方惣年寄に任ぜられてから、次代の庄太郎とともに岡山市域の民政を取り仕切りました。

 国富家の文書は城下町の市民から、町奉行への申し立てや請願書と藩からの回答や指示が記録されています。

 廻状(国富家文書、安政年間)

惣年寄え
上方酒他所酒幷在方ニて
造立候酒共、
御城下ニ而売買不相成儀は
古来よりの御法相ニ而、度々
触達も有之候得共、追々
相弛候趣ニ付、去嘉永元申年
厳敷指留候段相触、猶又
亥年ニも触置候処、近来
別而相弛ミ、請売酒屋幷
素人共上方酒在酒等取集、
多数売候者も有之哉ニ相聞候。
御法合致軽蔑候段、甚以
不埒之事ニ候。依之此節厳密ニ
取調、売買指留厳敷咎
可申筈ニ候得共、近来猥ニ相成候
處より心得違候者も多く、其上
当時米価高直之折柄、傍
寛宥之沙汰を以咎ニ不及、
当九月中ハ見免置候間、追々
正路之売酒相営候様可致候。
自然心得違十月朔日已後、
上方酒他所酒幷在方ニて
造立候酒、少之さし酒たり共
取寄売候者於有之ハ、請売
酒屋株幷有酒不残取揚、
厳敷咎可申付候。素より無
株之者は酒売買一切指留
候間、心得違無之様可致候。 

右之通町中末々迄
不洩様可被触知候。尤自分
支配別改之者えも可被申移候。
   閏七月廿六日

右之通候。伝候間、別段
被心得町内末々迄不洩様
被申付、心得違無之様可
被御心付候、以上。
   国富源次郎

 さて、酒造りについては、宇喜多秀家は岡山城下以外では禁止することによって、城下の繁栄と、在方では農業の振興を目指していました。また、江戸時代になっても、その政策は引き継がれましたが、1642(寛永19)年、「国中酒造所」として、岡山城下の他に牛窓、下津井、片上、虫明、和気、金川、周匝、建部、天城、西大寺、福岡、鴨方、八浜の十三村が指定されました。この十三村は「在町」とよばれ在方商業の中心地でもありました。因みに、寛文年間の酒造米の量は城下一万五千石、在方は五千石であったようです。

 国富家文書にあるように、江戸時代も後半になると、在方(地方)での酒造も盛んになり、町方(城下)の酒造者との対立が起こるようになりました。また、上方酒として灘の酒が売られるようになり、競争が激しくなってきたため、惣年寄を通じて町奉行に岡山城中以外の他所の酒を取り寄せて売らないように陳情していました。

 ここで、江戸時代の酒造業の変遷を見てみると、第一には1657(明暦3)年酒造株が制定され、表示された株高まで酒造営業権が認められ、この制度は明治4年に廃止されました。第二には幕藩体制によって厳重な酒造統制が行われました。減醸令は江戸時代に六十一回も実施されましたが、特に、幕末には幕藩体制が動揺したため、酒造業の停滞期を迎えることになりました。岡山藩も幕府の減醸令に従い、幕末にはかなりの減産が行われ、有力商人の多かった酒造家に大きな打撃を与えました。

 さて、このような状況は現在の酒造業界とよく似ており、需要の長期的停滞によって酒類業界の競争は熾烈となり、灘、伏見の上方酒や地方の酒が岡山市に乱入してきており、岡山市内の酒造業者は大変な苦境に陥っています。今日では町奉行に訴えることもできないので、地産地消の必要性を訴えることに力を入れています。

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