備前児島酒(2003年2月号)

宮下酒造株式会社
社長 宮下附一竜

 今回は城下町の銘酒として有名になっていた「備前児島酒」について、加藤百一氏の「城下町の銘酒」(日本醸造協会誌第九七巻第十号)を参考にして書きます。

 「備前児島酒」というブランド名が最初にでてくるのは、宇喜多秀家から「児島大樽」を拝領したという「鹿苑日録」(一五九七年三月二二日条)の記事であるといわれています。 鹿苑日録は鹿苑院の歴代僧録の日記を集めたものです。 また、その他の史料にも見られますので、「備前児島酒」が京において銘酒として知られていたことが推察できます。

 児島酒の中心は、児島湾に臨む備前国児島郡郡村(現在の岡山市郡)であり、酒造用水は対岸の旭川の河口に近い上道郡平井(現在の岡山市平井)の清水を使っていたことが「吉備前鑑」に書かれています。

 一五九五年、宇喜多秀家は岡山の城下以外での酒造りを禁止し、酒屋を岡山城下へ強制移住させています。 この頃戦国大名である宇喜多氏によって岡山の城下町が整備されようとしていたことがわかります。

 なお児島酒は、1600年の関ケ原の戦以降も引き続いて海路上方市場へ送られています。 その後、岡山藩では一六四二年「国中酒造所」と称して、岡山城下以外には、牛窓、下津井、片上、虫明、天城、八浜などの海港、西大寺、和気などの河港、それに金川、建部、周匝、福岡など、計十三ヶ村を指定しています。

 銘醸地岡山の復活をめざす私たちは、「吉備の豊酒」や「児島酒」のように天下に名声のとどろいた岡山ブランドの銘酒があったということを、よくよく心に銘記しなくてはならないと思います。

«
»