「市政提要」にみる酒造之事

宮下酒造株式会社
社長 宮下附一竜

 「市政提要」は、寛文年間(一六六一~一六七二)から万延年間(一八六〇~一八六一)に至る約二百年間の、岡山城下町の商工業や町人の風俗・生活の統制に関する法令、町人から総年寄・町奉行へ差出した諸願書や諸記録を集録したもので、岡山藩の民衆の生業や生活の実態を知るうえでの根本史料です。

 この「市政提要」が編纂されたのは、一八五三(嘉永六)年のころとおもわれますが、この厖大な「市政提要」の編纂を企画したのは、ときの町奉行高桑忠右衛門です。高桑忠右衛門は、町会所に所蔵された文書・記録が雑然と集積され、分類・整理なされていないことを憂え、多くの文書・記録を項目別に分類し、年次を追ってまとめた「市政提要」を編纂することにしたのです。三十六項目に分類された中に「酒造之事」として、一六六七(寛文七)年より一八六四(嘉永七)年までの約二百年の、主に酒造統制についての記録が書かれています。

市政提要

 ところで、政府間機構であるIpcc(気候変動に関する政府間パネル)が発表した過去千年の地球の気温変化を日本の歴史に当てはめてみると、戦国時代から江戸時代は「小氷期」と呼ばれる気温の低い時代であったと推測されます。江戸時代に飢饉や米の不作が度々発生したのは、気温の低下が原因であったことが考えられます。江戸時代後期の農政家の二宮尊徳は、夏前なのにナスの味が秋ナスの味がしたことから、その年は冷夏になること予測し、村人たちに指示して冷害に強いヒエを植えさせたところ、その年天保の大飢饉が発生しましたが、村人に餓死者がでなかったという話が伝わっています。

タツミムック (2014) 『地勢と統計から解き明かす! あなたの知らない日本史』 辰巳出版

タツミムック (2014) 『地勢と統計から解き明かす! あなたの知らない日本史』 辰巳出版

 米が不作になると、幕府は米価高騰を抑制するために、株札に表示されている株高(酒造米高)を基準にして、減醸令を発令しています。このような統制令は、1634(寛永十一)年に始まり1867(慶応三)年までの約二三四年間において六十一回の制限令と、六回の勝手造り令が発令されています。

 江戸幕府の発令した酒造法令発布度数の図表をみると、寛永・享保・天明・天保の4大飢饉を中心に、寛文から延宝年間、元禄から宝永年間、天明から寛政年間、天保年間、そして幕末と厳しい酒造制限令が出されています。

柚木 学 (2005) 『酒造りの歴史』 雄山閣

柚木 学 (2005) 『酒造りの歴史』 雄山閣

 一方、享保末年以降は豊作が続き米価が下落し、1754(宝暦四)年元禄調高までの勝手造り令が発令されています。また、文化文政年間には造石奨励策への政策転換が行われました。このような幕府の政策の転換期をとらえて、伊丹から灘へと江戸積酒造業の主産地の転換が起こったといわれています。

 しかしながら、一般には幕府の目まぐるしく変わる減産統制によって、江戸時代の酒屋は困窮を余儀なくされ、多くが廃業していきました。

 このような幕府からの法令は、全国の大名各藩に江戸(公儀)より伝えられ、そして各藩の町奉行から惣年寄に伝えられ、酒造家に伝達されました。 また、逆に酒造家の請願書は惣年寄より町奉行に提出されました。

 これらの記録が、町奉行に残されており、これを編纂したものが、市政提要として残されている文書です。
 
 さて、幕府の制定した酒造株にはいろいろな種類がありますが、1657(明暦三)年にはじめて制定されたとする酒造株は、酒造人を指定してその営業権を保障するとともに酒造で消費する米の量の上限(酒造株高)を定めたものです。酒株の表示は玄米での表示であり、米一石は二俵半(百五十kg)のことです。玄米一石からできる酒の量はおおよそ0・8石と考えられます。

 「市政提要」によると、岡山町中酒之米高は、1661(寛文元)年に四万石ですが、寛文二年は二万二千石、寛文三年は一万五千石、寛文七年は一万四千九百九七石、酒屋数百七七軒と書かれています。寛文八年には酒造高半減を申し渡され七千五百石、寛文十一年にはその半分の三千七百五十石になっています。

 1697(元禄十)年には「酒株改め」が実施され、六千八百石になっています。しかし、この「酒株改め」は酒屋の造石高を把握して、課税を強化しようとすることが本当のねらいで、元禄十年十一月に造り酒屋に対して、現行価格の五割の運上金を課す触書を移達しています。しかしながら、1709(宝永六)年幕府は酒運上を廃止しています。

 なお、元禄十一年の元禄調査高によれば、全国の醸戸数二万七千二五一戸、醸造米高九十万九千三三七石、岡山藩内では酒造人二百十四軒、醸造米高五千七百六五石となっています。

 元禄十三年には江戸より新酒造りは停止するように通知の移達があり、寒作のみ認められ、元禄十一年の半分二千八百八二石の酒米高になっています。
 
 1754(宝暦四)年には幕府より元禄十年の酒造高まで復帰するよう通達があり、六千八百石になっています。
 
 1783(天明三)年の浅間山大噴火によって、以後の数年間は気候不順から凶作が続き、信州や東北では深刻な天明の大飢饉となりました。天明六年には幕府より元禄十年の酒造高の半減と休株による酒造禁止の移達が行われました。天明八年には酒造株高と実際の造石高との隔たりを是正する目的で「天明の酒株改め」を実施しました。そして、天明六年に酒屋に申告させた実際の造石高をもとにその「三分の一造り」を命じました。
 
 1833(天保四)年の大雨による洪水や冷害による大凶作によって、天保の大飢饉が起こり、天保七年まで続いたといわれます。天保四年九月に公儀より御触があり、町奉行から惣年寄へ、諸国違作につき三分の二に減石するように申渡されています。天保五年五月には「今以米価高直に付下々之者及難儀候旨相聞候間、追て及沙汰候迄ハ去巳年以前迄来米高之三分二相減シ三分一酒造可致候」と御触れが出ています。
 
 このように「市政提要」を見てくると、江戸時代の岡山城下の酒造家は度々の減醸令によって、大変苦しい経営を強いられており、自然の過酷さに翻弄されてきたといっても過言ではないと思います。

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